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グラディエーター

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(羽根木公園のつつじ)

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このところ一日一回の散歩を除けばほぼ巣ごもり状態で
必然的にテレビを見る機会が増えた。

そんな折映画「グラディエーター」(=剣闘士)をまたまた見た。

この作品は2000年にアカデミー賞を総なめにしたように、
「ベンハー」「スパルタクス」と並ぶ古代ローマを舞台にした
3大名作のひとつだ。

主人公の剣闘士は架空とはいえ周囲の環境、つまり登場人物、
大道具、小道具などは時代考証も十分になされていて興味深い。



ローマ帝国(西ローマ)は前8世紀から5世紀(東ローマは15世紀)まで
続くが、前1世紀に共和制から帝政に変わった。

この映画は、16代皇帝のマルクス・アウレリウスがその息子
コモンドゥスへの継承にともない生じた軋轢をテーマにする。

このローマの繁栄のピークから滅亡へと転換させた張本人と
される暴君コモンドゥスは最後には剣闘士に暗殺されたように
暗愚の皇帝そして敵役として登場する。

実のところはこの親子10年近く共同皇帝として並立していたと
記録されるだけに、父を絞殺するという場面の設定はやや
飛躍しすぎとの点は否めない。

そしてラッセル・クロウが演じる主人公は先帝が後継者にと
考えていた渋い将軍で奴隷に身分を落としつつも剣闘士となり
その恨みを晴らす筋立てだ。

なかでも剣闘士同士あるいは野獣との闘いなどコロッセオで
繰り広げられる白熱シーンは映画ならではのだいご味だ。



そもそも五賢帝の時代は紀元96年から180年までの間ネルウァ、
トラヤヌス、ハドリアヌス、ピウス、マルクス・アウレリウスと続き
パクス・ロマーナつまりローマが平和と繁栄の絶頂期を迎える。

外征に力を注いだ13代トラヤヌス帝の時に最大の版図になり、
またこの時代に街道や水道などインフラが完備するのである。

ということでマルクス・アウレリウス帝がゲルマニア(ドナウの北、
ラインの東)で戦闘中に死去するが、これを機に五賢帝の時代は
終わり以降衰退の道を辿る。

ローマの歴史はまさに英国18世紀の歴史家ギボンが指摘
したように絶頂期において衰退の芽が育ったが、それは全ての
歴史が教える真実と言ったところでもある。


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気候変動

過日のダボス会議は刺激的な話題や発言は少なく
市場へのインパクトも皆無に終わった。

その中で注目されたのは環境保護活動家のグレタさんが講演し、
全身に怒りを漲らせ何も行動しない大人たちを叱りつけたことだろう。

飛行機を拒否し、エネルギーの消費を忌避する過激な
思想の行き着くところは、二酸化炭素を排出する人間の
存在の否定に至るのではないかと心配になる。

この怒りと殺気の源泉は若さか、病気かそれとも
ジャンヌダルクの再来と持ち上げる一部大人たちのせいか。



気候変動の人類に与える影響は様々にあるが
歴史的にも国家・民族の興亡は環境変化なくして語れない。

地球は1万年余り前に氷期を終え間氷期に入っているが、
他方数百年単位で寒暖を繰り返して現在にいたっている。

この長期的温暖気候下において農耕、遊牧などの生産活動が
活発化してきたが、紀元前後において大きく変動した。

特に紀元前1千年紀は温暖化が顕著でギリシャに続いて
ローマ帝国が繁栄した背景と考えられている。

しかし紀元後に寒冷化が進み、民族の
大移動が起きたことが
ローマ帝国の衰亡の遠因になったとされる。



中国でも同様で、紀元前に匈奴など遊牧民も安定的
な生活を送り農耕民との関係も友好的と言えた。

お陰でその時期に秦漢帝国という中華帝国の礎が築かれたのである。

しかし紀元後とくに三国時代において寒冷化による
草原の縮小に伴い遊牧民が南下した。

その結果魏が滅び、遊牧民が入れ代わる五胡十六国の時代に入り、
遊牧民の流れを汲む隋唐帝国ができるまで戦乱が続く。

このように気候変動が人類に与える影響は甚大であり、
さすれば気候変動について深く考える必要があるのは明らかだ。

ということでグレタさんの怒りも当然なのかも知れないが、
叱るばかりでなくチコちゃんのようにユーモアがないと人々は
耳を傾けてくれないのではないだろうか。



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神無月

40年を超えて購読してきた日経新聞をやめた。

テレビ、ネットの時代に今更の新聞だし会社ニュース
などもはや筆者には無用。

ようやく新聞依存症を脱却でき、さらにごみ処理の苦労からも
解放されていたってすっきりしたのである。

ということで残るは朝日新聞だが、それもTV番組欄とスポーツ以外
読みたいものもない今日この頃、過日夕刊に珍しく
価値ある記事を発見した。



それは美術史家・高階秀爾氏の「秋空の東塔」と題するエッセー。

時は10月「ああ、大和にしあらましかば、いま神無月」という
薄田泣菫の長編詩が頭に鳴り響いていると大和への思いを綴る。

「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」
との佐々木信綱の一首を引用しつつ薬師寺そしてその塔への思いを募らせる。

そして奈良にお似合いは華麗な夏空や陰鬱な冬空ではなく
穏和清澄な空間の広がりがある秋空だと言う。

そしてそれを代表するのが数多くある多重塔の中でも
1300年の歴史を生き抜いてきた薬師寺の東塔(三重塔)
というのである。



昨年春に西の京を訪れた際その塔は復元工事中で幕が張られていた。

その10年にわたる修理工事はまもなく終了し4月に落慶法要が行われる。

ということでこのエッセーに触発されたわけではないが、
来春は奈良に足を伸ばしたいと思っている。

その節には興福寺など五重塔巡りをしてみるのも一興か。



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拝謁記

例年8月平成の天皇は戦争への反省を込めて
祈りの時を過ごしていたと聞く。

また新天皇も「深い反省を踏襲する」と全国戦没者追悼式で
述べ、令和においても8月は祈りと反省の月であり続けることになった。

つまり昭和天皇の「反省」が3代に渡り引き継がれることになり
マスコミは喧伝したのだが・・・・

その一環か今年は初代宮内庁長官である田島道治の
1948年から5年に渡り天皇との600回にわたる面談を
記録した「拝謁記」が報道されたのである、

その内容についてはこれまでの侍従たちの回想記
を超えるものではないとの専門家の意見があり、朝日を除く大手各紙
もそのような扱いだったようだ。

しかしNHKは様相を異にし、特集番組を組んだのはもちろん
朝夕のニュースにおいて5日間にもわたりその内容を垂れ流し
一体何が起きたのかとその編集意図をいぶかしんだ。



その内容によれば天皇は戦争責任について繰り返し反省の弁を
述べ、それを国民にも伝えたいと考えていた。

しかし時の吉田茂首相に反対されてできなかったとも。

一方で戦後の国際情勢をかんがみて軍備の再構築を指示したがるなど
「象徴」の意味が良く分かっていない一面も散見されたようである。

つまり戦前の軍の大元帥としてまた国政において首相任免の
決定権者としての一面を習い性として変えられなかったようである。

つまり戦後に至っても「反省」と「権力者」の狭間で揺れていたのである。



どちらにしても戦後300万人の日本人が死亡するに至った戦争責任を
問う声があったものの、それ以上の多くの日本国民が天皇に
癒しを求めたことが今日の天皇家の運命を決定した。

相変わらず日曜日の早朝は「皇室日記」(かつては「皇室アルバム」
と言われた)が放映され、皇室の情勢が好意的に報道されている。

もちろん「優雅なニート」暮らしをする女性皇族たちに対する批判も
聞くが、天皇家に対する日本人の感情は不思議と言うしかないのである。

ともかく日本統治に不可欠と考えて平和憲法の導入と天皇家の
存続を決めたマッカーサーに先見の明があったと言うことだろうか?



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新天皇即位

5月1日 (水) 曇 20度

本日平成に変わって令和がはじまり、第126代の天皇が即位する。

男系男子がこれだけ続いていることはおめでたいかも知れないが、
日本の古代史は記録もほとんどなく
その真偽は不明だ。

そもそも「天皇」という言葉が使われたのは7世紀後半
大海人皇子が即位し天武天皇になった時。

そして「日本」との標記が見られるのもその頃、
つまり天武天皇のご落胤とも言われる藤原不比等の時代とされる。

したがってこの有史以前とも言える時代は神話の世界であり、
科学的にアプローチするなら中国史書に頼らざるえないのは今も昔も変わらない。



とはいっても中国史書の倭についての記述は断片的で、
ひたすら想像を膨らませることになる。

最初に登場する記述は「後漢書倭伝」で、
107年に倭国王が朝貢したと記録される。

つまりこの時代に北九州大宰府あたりに国らしき?ものがあり
国王らしき?力を持ったものがいたと考えられる。

さらに「魏志倭人伝」では3世紀前半の邪馬台国において
男子が王を続けていたがその国が乱れ卑弥呼を立てたと記述されている。

この2千文字程度の記録が古代日本を最も饒舌に語る文献で
、その地がヤマトか北九州かなど江戸時代から昭和まで熱く議論されてきた。

その学者たちの中には新井白石や本居宣長の名前も見えるが
真相は未だ分からない。




邪馬台国からの朝貢が266年に途絶え、その次中国史書に
倭国が登場するのは147年後の413年。

つまりこの間は日本からの遣使について何の記録も見えず、
「謎の4世紀」と言われている。

この世紀は古墳時代と言われるものでヤマトと河内の豪族間において
激しい権力争いがあったと想像されるが裏付ける資料は乏しい。

幸い5世紀以降は「宋書倭国伝」により仁徳から雄略天皇までと
思われる讃、珍、済、興、武の倭の五王が存在していたことが確認できる。

どちらにしても日本の古代と呼ばれる時代のアジアは中国の
皇帝を頂点に周辺の王が冊封(任命)される構図にあったことはほぼ明らかだ。

そして中国での王朝の興亡はアジア、朝鮮半島そして倭国の勢力争いに
微妙な影を落としていたことが類推される。

つまり昔もそして令和時代も、日本は様々に中国の影響を受けるということである。


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プロフィール

斉藤洋二

Author:斉藤洋二
銀行・生命保険会社にて
長く為替・投資業務に携わった。

特にホンコン、パリ在住の際には
中国・アジア・欧州・アフリカ
各国を見て歩いた。

歴史・料理・音楽に興味がある。

「ネクスト経済研究所」代表

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