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新天皇即位

5月1日 (水) 曇 20度

本日平成に変わって令和がはじまり、第126代の天皇が即位する。

男系男子がこれだけ続いていることはおめでたいかも知れないが、
日本の古代史は記録もほとんどなく
その真偽は不明だ。

そもそも「天皇」という言葉が使われたのは7世紀後半
大海人皇子が即位し天武天皇になった時。

そして「日本」との標記が見られるのもその頃、
つまり天武天皇のご落胤とも言われる藤原不比等の時代とされる。

したがってこの有史以前とも言える時代は神話の世界であり、
科学的にアプローチするなら中国史書に頼らざるえないのは今も昔も変わらない。



とはいっても中国史書の倭についての記述は断片的で、
ひたすら想像を膨らませることになる。

最初に登場する記述は「後漢書倭伝」で、
107年に倭国王が朝貢したと記録される。

つまりこの時代に北九州大宰府あたりに国らしき?ものがあり
国王らしき?力を持ったものがいたと考えられる。

さらに「魏志倭人伝」では3世紀前半の邪馬台国において
男子が王を続けていたがその国が乱れ卑弥呼を立てたと記述されている。

この2千文字程度の記録が古代日本を最も饒舌に語る文献で
、その地がヤマトか北九州かなど江戸時代から昭和まで熱く議論されてきた。

その学者たちの中には新井白石や本居宣長の名前も見えるが
真相は未だ分からない。




邪馬台国からの朝貢が266年に途絶え、その次中国史書に
倭国が登場するのは147年後の413年。

つまりこの間は日本からの遣使について何の記録も見えず、
「謎の4世紀」と言われている。

この世紀は古墳時代と言われるものでヤマトと河内の豪族間において
激しい権力争いがあったと想像されるが裏付ける資料は乏しい。

幸い5世紀以降は「宋書倭国伝」により仁徳から雄略天皇までと
思われる讃、珍、済、興、武の倭の五王が存在していたことが確認できる。

どちらにしても日本の古代と呼ばれる時代のアジアは中国の
皇帝を頂点に周辺の王が冊封(任命)される構図にあったことはほぼ明らかだ。

そして中国での王朝の興亡はアジア、朝鮮半島そして倭国の勢力争いに
微妙な影を落としていたことが類推される。

つまり昔もそして令和時代も、日本は様々に中国の影響を受けるということである。


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治世と乱世

①歴史上最大の版図を得た中国共産党がなぜ
 国家の崩壊をかくも恐れるのか

②古代中国において東方にあった倭国つまり
 日本はどのような存在であったのか

これらを知ろうと近頃中国の古代史を読んでいる。

一言でいうならば有史以来1500年の歴史しかもたない日本人としては、
10倍を超える国土、人口、時間軸を有する中国歴史の分厚さに圧倒されるばかりだ。

特に夏殷周から始まった古代社会の発展ぶりはエジプト、
メソポタミアに匹敵し現代までの繁栄も含めれば特異である。



「そもそも天下の大勢は分かれること久しければ必ず合し、
合すること久しければ必ず分かれる」

これは三国志演義の冒頭の一節で、中国人の
歴史観そのものと言って良いだろう。

換言すれば「諸行無常・盛者必衰」で始まる平家物語が日本人
の歴史観の根本にあるのと同じ。

つまり中国5千年の歴史は治世と乱世の繰り返しである。

実際周王朝末の春秋戦国の分裂を経て、秦漢の統一帝国が400年続いた。

その後三国時代に突入し、一時晋が再統一したものの
五胡十六国・南北朝の分裂が400年続くことになる。

そして隋唐が300年の統一王朝を築くが続いて五代十国に分かれ、
そして北宋の統一を経たのち南宋と金に分裂して南北時代に突入。

それから元明清が600年におよぶ王朝を建てることになる。

まさに分かれては合し、合しては分かれることの繰り返しこそ
中国歴史の神髄である。



20世紀以降は軍閥割拠・国共内戦を経て共産党政権
が樹立され70年を経た。

そして目下はウイグル、チベットなど民族問題を抱え、
いつ一触即発するかも知れないとの惧れを拭えないのも当然か。

実際これまで漢民族はじめ匈奴、鮮卑、柔然、吐蕃、モンゴルなど
数えきれない民族が中国本土を舞台に覇権を争ってきたことを見れば、
誰しもが乱世到来の予感を感じるのも無理のないところ。

ともかく中国の民族興亡の歴史は単一民族による狭い国土での争いしか知らない
日本人からすれば想像を絶する。

もう少し読み進んで中国人の持つ歴史観そして対日観の本質に
迫れたらと思っている。


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松と藤

昨秋奈良を訪れた際に興福寺は中金堂が再建され、
落慶法要でにぎわっていた。

また日経新聞でも11月「私の履歴書」において興福寺貫首の
多川俊映氏が執筆した。

そんな折雑誌の鼎談で朝吹真理子氏が藤原家について、
天皇家を松とすればそれに絡みつく藤のような存在で
生き長らえてきたと語っていた。

ということで目下藤原家及び氏寺の興福寺についてあれこれと考えている。



藤原家の始祖は天智天皇とともに大化の改新を
成し遂げた(帰化人との説もある)中臣鎌足。

その功績に対して藤原姓が下賜され、さらに天智天皇のご落胤とも
言われる2代目不比等の活躍を機に同家は大きく発展する。

3代目において北、南、京、式の4家に分かれるが結局藤原北家が
ひとり栄えることになり、平安中期に「かけたることなき望月の」と
詠まれた道長父子の登場に至る。

だが平氏の台頭により興福寺は焼き討ちされ同時に武士の時代に藤原家は
苦難の時代を送ることになる。

この時期同家は近衛、九条、一条、二条、鷹司の五摂家に分かれるが
天皇家にまとわり生き延びる習性を一段と強める。

ともかく源平藤橘と日本の名家は4家からなるとされるが
藤原家の力が抜きんでてきたことは明らかだ。



明治維新後は西園寺家および近衛家が藤原家の主流となるが、
平成に入っても藤原家の一員として細川政権が表舞台に顔を出したりする。

世界の名家として、愛新覚羅家やブルボン家そしてハプスブルク家が
食事会をしたりする風景がテレビに映し出されたりすることがある。

これら世界の名家や天皇家と比べても1300年に渡る藤原家の息の長さは
それに比肩すると言って良いだろう。

次回奈良に行く機会があれば興福寺のみならず、藤原家氏神の
春日大社、さらに鎌足と天智天皇が蘇我入鹿討伐の密議を
したという談山神社にも足を伸ばしてみたいと思う。



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まほろば

やまとは 国のまほろば たたなづく青垣
やまこもれる やまとしうるはし

11代景行天皇もしくはその息子のヤマトタケルが遠くから美しい
やまとを思って作った歌とされる。

したがってこのところ「まほろば=美しい土地」と謳われた奈良を
懐かしく感じるのも関西出身者としては無理からぬところのようで、
昨年は2度訪れたが今年もまた出かけたいと思う。

そんなおり南都銀行が東京の顧客そして奈良のファンを対象にした
「まほろば支店」の開設講演会に参加した。



「まほろば支店」とは仮想の支店、つまり同行もインターネット
バンキングを開始するとのこと。

地銀もインターネットバンキングにコストをかけて取り組まねばならなくなった
ようで、預貸率が悪化し、低金利が続く中でもあり
銀行業も大変だなと思ってしまう。

とはいえそんなことは忘れて、帝塚山大学の西山厚教授の「大仏さんと
行基さん」というお話を聞いて奈良時代にタイムスリップしたのである。

この先生のことは知らないが、なんでもNHK奈良放送局で毎週
古寺を巡る番組を持っていて地元では人気を博しているとの
自己紹介があったのでたぶんそうなのだろう。

ともかくユーモアにあふれる話ぶりに引き込まれつつ
行基の人となりそして聖武天皇との交流などについて
お話を聞いたのである。



行基はため池や灌漑など土木事業で活躍し大仏づくり
に協力した人として小学校6年生は知っていなければならないとのことだ。

しかし行基の廟や建立したお寺などは馴染みのないところで
したがってこの高僧の詳細は余り知られていない。

と言うことで講演は今ひとつインパクトが乏しかったが、
やはり大仏にまつわる話ならば、聖武天皇やその娘の
孝謙天皇さらには藤原家の話を聞きたかったなというのが偽わらざる気持ちだ。

ともかく今回のお礼に、そして古寺関連の案内やギフトが定期的に
もらえるとのことでもあり早速まほろば支店に口座を
開設することにした。


ビザンツ帝国

英国の歴史学者ジョナサン・ハリスの「ビザンツ帝国ー
生存戦略の1千年」を読んだ。

ビザンツ帝国は4世紀前半にコンスタンチヌス大帝が
コンスタンチノープルに遷都して以降1453年にオスマン帝国により
陥落されるまで1千年以上に渡り続いた。

その間皇帝は90人を数えたが、当初のゲルマン民族その後
イスラム教アラブやセルジュークやオスマンなどトルコに周辺を
脅かされながらも国家は存続したのである。

そして6世紀のユスチ二アヌス帝の頃に版図は最大化し、
イベリア半島からアフリカ北部さらに中東までの地中海沿岸を治め、
さらに東はユーフラテス川、そして北は黒海に至った。



ローマ帝国が東西に分離した後、5世紀後半に西ローマ帝国は滅亡したが
東ローマはビザンツ帝国として繁栄したことは19世紀のギボン
はじめ多くの歴史家が注目しては研究をしてきた。

コンスタンチノープルにはパンを焼いた窯が多数発見されているように
国家が十分なパンを配給し、またサーカスを催すなど国民を慰撫
したことが国家繁栄の大きな理由のひとつとも言われている。

今回著者はこの回答として、武力ではなく忍耐強い外交や芸術・文学など
キリスト教文化の魅力によるものと結論づけている。

つまりハードパワーではなくソフトパワーにより周辺世界と交渉し、
イスラム教アラブなどとの共存を可能としてきたと言うことである。



ビザンツ帝国と同様に長く続いた国家に都市国家ベネチアがある。

ビザンツと比べ人口は10万にも及ばない小さな都市国家だが、
それでも9世紀に建国されて以来19世紀までの1千年に渡り
国家として存続したのである。

その政治体制を国内、国際情勢など時代の要請に合わせて様々に
変えたが、言ってみれば国民の知恵が結集した結果だったと言える。

現在の世界は米国が軍事力そしてソフトパワーで世界に
君臨しているが、今後国家の存亡をかけてどのような知恵を出すのか。

また米国一辺倒の日本は東アジアで生き残るために中国そして
北朝鮮とどのように付き合ってゆくのかその知恵の発揮が試される。


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プロフィール

斉藤洋二

Author:斉藤洋二
銀行・生命保険会社にて
長く為替・投資業務に携わった。

特にホンコン、パリ在住の際には
中国・アジア・欧州・アフリカ
各国を見て歩いた。

歴史・料理・音楽に興味がある。

「ネクスト経済研究所」代表

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