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神無月

40年を超えて購読してきた日経新聞をやめた。

テレビ、ネットの時代に今更の新聞だし会社ニュース
などもはや筆者には無用。

ようやく新聞依存症を脱却でき、さらにごみ処理の苦労からも
解放されていたってすっきりしたのである。

ということで残るは朝日新聞だが、それもTV番組欄とスポーツ以外
読みたいものもない今日この頃、過日夕刊に珍しく
価値ある記事を発見した。



それは美術史家・高階秀爾氏の「秋空の東塔」と題するエッセー。

時は10月「ああ、大和にしあらましかば、いま神無月」という
薄田泣菫の長編詩が頭に鳴り響いていると大和への思いを綴る。

「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」
との佐々木信綱の一首を引用しつつ薬師寺そしてその塔への思いを募らせる。

そして奈良にお似合いは華麗な夏空や陰鬱な冬空ではなく
穏和清澄な空間の広がりがある秋空だと言う。

そしてそれを代表するのが数多くある多重塔の中でも
1300年の歴史を生き抜いてきた薬師寺の東塔(三重塔)
というのである。



昨年春に西の京を訪れた際その塔は復元工事中で幕が張られていた。

その10年にわたる修理工事はまもなく終了し4月に落慶法要が行われる。

ということでこのエッセーに触発されたわけではないが、
来春は奈良に足を伸ばしたいと思っている。

その節には興福寺など五重塔巡りをしてみるのも一興か。



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拝謁記

例年8月平成の天皇は戦争への反省を込めて
祈りの時を過ごしていたと聞く。

また新天皇も「深い反省を踏襲する」と全国戦没者追悼式で
述べ、令和においても8月は祈りと反省の月であり続けることになった。

つまり昭和天皇の「反省」が3代に渡り引き継がれることになり
マスコミは喧伝したのだが・・・・

その一環か今年は初代宮内庁長官である田島道治の
1948年から5年に渡り天皇との600回にわたる面談を
記録した「拝謁記」が報道されたのである、

その内容についてはこれまでの侍従たちの回想記
を超えるものではないとの専門家の意見があり、朝日を除く大手各紙
もそのような扱いだったようだ。

しかしNHKは様相を異にし、特集番組を組んだのはもちろん
朝夕のニュースにおいて5日間にもわたりその内容を垂れ流し
一体何が起きたのかとその編集意図をいぶかしんだ。



その内容によれば天皇は戦争責任について繰り返し反省の弁を
述べ、それを国民にも伝えたいと考えていた。

しかし時の吉田茂首相に反対されてできなかったとも。

一方で戦後の国際情勢をかんがみて軍備の再構築を指示したがるなど
「象徴」の意味が良く分かっていない一面も散見されたようである。

つまり戦前の軍の大元帥としてまた国政において首相任免の
決定権者としての一面を習い性として変えられなかったようである。

つまり戦後に至っても「反省」と「権力者」の狭間で揺れていたのである。



どちらにしても戦後300万人の日本人が死亡するに至った戦争責任を
問う声があったものの、それ以上の多くの日本国民が天皇に
癒しを求めたことが今日の天皇家の運命を決定した。

相変わらず日曜日の早朝は「皇室日記」(かつては「皇室アルバム」
と言われた)が放映され、皇室の情勢が好意的に報道されている。

もちろん「優雅なニート」暮らしをする女性皇族たちに対する批判も
聞くが、天皇家に対する日本人の感情は不思議と言うしかないのである。

ともかく日本統治に不可欠と考えて平和憲法の導入と天皇家の
存続を決めたマッカーサーに先見の明があったと言うことだろうか?



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新天皇即位

5月1日 (水) 曇 20度

本日平成に変わって令和がはじまり、第126代の天皇が即位する。

男系男子がこれだけ続いていることはおめでたいかも知れないが、
日本の古代史は記録もほとんどなく
その真偽は不明だ。

そもそも「天皇」という言葉が使われたのは7世紀後半
大海人皇子が即位し天武天皇になった時。

そして「日本」との標記が見られるのもその頃、
つまり天武天皇のご落胤とも言われる藤原不比等の時代とされる。

したがってこの有史以前とも言える時代は神話の世界であり、
科学的にアプローチするなら中国史書に頼らざるえないのは今も昔も変わらない。



とはいっても中国史書の倭についての記述は断片的で、
ひたすら想像を膨らませることになる。

最初に登場する記述は「後漢書倭伝」で、
107年に倭国王が朝貢したと記録される。

つまりこの時代に北九州大宰府あたりに国らしき?ものがあり
国王らしき?力を持ったものがいたと考えられる。

さらに「魏志倭人伝」では3世紀前半の邪馬台国において
男子が王を続けていたがその国が乱れ卑弥呼を立てたと記述されている。

この2千文字程度の記録が古代日本を最も饒舌に語る文献で
、その地がヤマトか北九州かなど江戸時代から昭和まで熱く議論されてきた。

その学者たちの中には新井白石や本居宣長の名前も見えるが
真相は未だ分からない。




邪馬台国からの朝貢が266年に途絶え、その次中国史書に
倭国が登場するのは147年後の413年。

つまりこの間は日本からの遣使について何の記録も見えず、
「謎の4世紀」と言われている。

この世紀は古墳時代と言われるものでヤマトと河内の豪族間において
激しい権力争いがあったと想像されるが裏付ける資料は乏しい。

幸い5世紀以降は「宋書倭国伝」により仁徳から雄略天皇までと
思われる讃、珍、済、興、武の倭の五王が存在していたことが確認できる。

どちらにしても日本の古代と呼ばれる時代のアジアは中国の
皇帝を頂点に周辺の王が冊封(任命)される構図にあったことはほぼ明らかだ。

そして中国での王朝の興亡はアジア、朝鮮半島そして倭国の勢力争いに
微妙な影を落としていたことが類推される。

つまり昔もそして令和時代も、日本は様々に中国の影響を受けるということである。


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治世と乱世

①歴史上最大の版図を得た中国共産党がなぜ
 国家の崩壊をかくも恐れるのか

②古代中国において東方にあった倭国つまり
 日本はどのような存在であったのか

これらを知ろうと近頃中国の古代史を読んでいる。

一言でいうならば有史以来1500年の歴史しかもたない日本人としては、
10倍を超える国土、人口、時間軸を有する中国歴史の分厚さに圧倒されるばかりだ。

特に夏殷周から始まった古代社会の発展ぶりはエジプト、
メソポタミアに匹敵し現代までの繁栄も含めれば特異である。



「そもそも天下の大勢は分かれること久しければ必ず合し、
合すること久しければ必ず分かれる」

これは三国志演義の冒頭の一節で、中国人の
歴史観そのものと言って良いだろう。

換言すれば「諸行無常・盛者必衰」で始まる平家物語が日本人
の歴史観の根本にあるのと同じ。

つまり中国5千年の歴史は治世と乱世の繰り返しである。

実際周王朝末の春秋戦国の分裂を経て、秦漢の統一帝国が400年続いた。

その後三国時代に突入し、一時晋が再統一したものの
五胡十六国・南北朝の分裂が400年続くことになる。

そして隋唐が300年の統一王朝を築くが続いて五代十国に分かれ、
そして北宋の統一を経たのち南宋と金に分裂して南北時代に突入。

それから元明清が600年におよぶ王朝を建てることになる。

まさに分かれては合し、合しては分かれることの繰り返しこそ
中国歴史の神髄である。



20世紀以降は軍閥割拠・国共内戦を経て共産党政権
が樹立され70年を経た。

そして目下はウイグル、チベットなど民族問題を抱え、
いつ一触即発するかも知れないとの惧れを拭えないのも当然か。

実際これまで漢民族はじめ匈奴、鮮卑、柔然、吐蕃、モンゴルなど
数えきれない民族が中国本土を舞台に覇権を争ってきたことを見れば、
誰しもが乱世到来の予感を感じるのも無理のないところ。

ともかく中国の民族興亡の歴史は単一民族による狭い国土での争いしか知らない
日本人からすれば想像を絶する。

もう少し読み進んで中国人の持つ歴史観そして対日観の本質に
迫れたらと思っている。


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松と藤

昨秋奈良を訪れた際に興福寺は中金堂が再建され、
落慶法要でにぎわっていた。

また日経新聞でも11月「私の履歴書」において興福寺貫首の
多川俊映氏が執筆した。

そんな折雑誌の鼎談で朝吹真理子氏が藤原家について、
天皇家を松とすればそれに絡みつく藤のような存在で
生き長らえてきたと語っていた。

ということで目下藤原家及び氏寺の興福寺についてあれこれと考えている。



藤原家の始祖は天智天皇とともに大化の改新を
成し遂げた(帰化人との説もある)中臣鎌足。

その功績に対して藤原姓が下賜され、さらに天智天皇のご落胤とも
言われる2代目不比等の活躍を機に同家は大きく発展する。

3代目において北、南、京、式の4家に分かれるが結局藤原北家が
ひとり栄えることになり、平安中期に「かけたることなき望月の」と
詠まれた道長父子の登場に至る。

だが平氏の台頭により興福寺は焼き討ちされ同時に武士の時代に藤原家は
苦難の時代を送ることになる。

この時期同家は近衛、九条、一条、二条、鷹司の五摂家に分かれるが
天皇家にまとわり生き延びる習性を一段と強める。

ともかく源平藤橘と日本の名家は4家からなるとされるが
藤原家の力が抜きんでてきたことは明らかだ。



明治維新後は西園寺家および近衛家が藤原家の主流となるが、
平成に入っても藤原家の一員として細川政権が表舞台に顔を出したりする。

世界の名家として、愛新覚羅家やブルボン家そしてハプスブルク家が
食事会をしたりする風景がテレビに映し出されたりすることがある。

これら世界の名家や天皇家と比べても1300年に渡る藤原家の息の長さは
それに比肩すると言って良いだろう。

次回奈良に行く機会があれば興福寺のみならず、藤原家氏神の
春日大社、さらに鎌足と天智天皇が蘇我入鹿討伐の密議を
したという談山神社にも足を伸ばしてみたいと思う。



..
プロフィール

斉藤洋二

Author:斉藤洋二
銀行・生命保険会社にて
長く為替・投資業務に携わった。

特にホンコン、パリ在住の際には
中国・アジア・欧州・アフリカ
各国を見て歩いた。

歴史・料理・音楽に興味がある。

「ネクスト経済研究所」代表

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