パリの日本人

日本と欧州の接触について少し調べようと、
「幕末遣欧使節」(宮永孝)や「パリの日本人」(鹿島茂)など
いくつかの書籍を当たってみた。

江戸幕府による遣欧使節は文久年間(1862年)に始まる。

総勢36名で英国の軍艦で行き、一年あまりをかけて、
英仏独露蘭を訪問し病院、製鉄所などを視察している

さらに慶応年間の徳川昭武一行の万博参加なども含め8回にわたり行われた。

その姿はマルセイユ経由で入ったパリで目撃されては新聞で報道され、
ホテル・ルーブル、ルグラン、スクリーブなどで人だかりができたという。

よほどちょんまげに大小二本指は珍しかったようで、その群衆にいた
ゾラだったかモーパッサンだったかは「サルだ」と言ったとも伝わる。



日本から欧州へ渡った者と言えば、16世紀中葉ザビエルの帰国に伴った者が
いたとされるが、正式な記録では天正少年遣欧使節、さらに支倉常長の
慶長遣欧使節が最初だ。

その後は鎖国政策のため、西洋を見聞するのは薩摩藩など
の組織的密航か漂流者に限定された。

その中で特筆されるのは、寛政年間に大黒屋光太夫がロシアに、
そして探検家・間宮林蔵が樺太から清の黒竜江を遡上したこと。

さらに土佐の漁師・ジョン万次郎や播磨の漁師・アメリカ彦次郎などが
捕鯨船に助けられて米国で教育を受けている。

前者は後に幕府に取り立てられて旗本から東大教授になり、
後者は米国籍に転じハリスの下で横浜の米領事館の通訳となり
さらに新聞社を興した。

このような人々が日本人として西洋文化に触れる先駆者となった。



明治に入り欧州への留学は一般化し、特に皇族・華族の
遊学は当たり前となる。

パリで10年にわたり真面目に勉強した西園寺公望などの
一部例外を除き、多くはバカロレアをあきらめパリで楽しく過ごしていたようだ。

その極め付けが、1920年代に明治天皇の娘3人を
妻とする条件で宮家を継いだ北白川、朝香宮、東久邇の3宮家の当主たち。

この人たちはパリで優雅に暮らしていたようで、ノルマンディーに
ドライブに出かけ国道から外れて木に激突して北白川宮は死亡、
夫人さらに朝香宮も足を引くようになったと言う。

この事件は日本にも伝わりその素行については
かなり問題視されたようだ。

今では三笠宮(ヒゲ殿下)や浩宮などに見られる通り
王室がないせいか、渡航先はフランスではなく英国が定番となっている。

ともかく片道40日もかかった幕末の頃に比べると
欧州への旅も随分楽になったものだ。



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プロフィール

Author:斉藤洋二
銀行・生命保険会社にて
長く為替・投資業務に携わった。

特にホンコン、パリ在住の際には
中国・アジア・欧州・アフリカ
各国を見て歩いた。

歴史・料理・音楽に興味がある。

「ネクスト経済研究所」代表

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